Spyhop エピソード0〜移住前の仕事〜

今回は僕が移住してどんな仕事をしているのかについて話をする。
移住して仕事をしている上で移住する前に何をしていたのかも触れつつ、Spyhopについて記事にしてみた。
今のところは、シリーズ記事としてこれから連載する予定で考えている。

Contents


  1. これまでの経験
  2. 移住と仕事の両立を考える

1. これまでの経験

生活雑貨メーカー 企画営業(2010〜2015年)

大学を卒業した2010年4月、僕は大阪市内にある10数名の小さな生活雑貨メーカーに企画営業職として入社した。特にやりたい仕事はなかった。決めていたことは大阪で働けることと一番最初に内定をくれる会社だった。リーマンショックによる就職氷河期ともあったが就職ができた。

その会社で僕は有形商材の企画・営業・品質管理・貿易など商売と商売人としてのいろは教えていただいた。
当時は出張も多く、国内だけでなく海外(中国)もだったので大変だったが今思うとあの時があるから今、こうしていられるのだと思う。

しかし、企画営業をしていく中で疑問がではじめた。
それはモノが売れないということ。

売れないことにより、職人減少、工場の閉鎖などを目の当たりにした。
日本にはモノが溢れていて、商品にストーリーや理由付けが必要となっていたのだ。
そのためにはカタチのない無形商材の営業ができるようになりたい。
在庫を持つ商売の限界を感じていた。

ちょうどその頃にアートディレクター 佐藤可士和氏の本を読むようになった。
その影響もあって、無形商材扱う広告業界への転職活動することを決意した。

Web制作会社 プロデューサー 兼 営業(2015〜2018年)

面接には佐藤可士和氏の本を持参して意味はわからないけど、こんなことがしたいと話して熱意で東京と大阪に拠点を構える制作会社の大阪事務所に採用をしていただいた。
当時の僕は熱意に満ちあふれていた。

入社してからは大変だった。
横文字だらけで何を言ってるのかもわからない。
同じ日本人なのにまるで外国に来たかのようだった。
クリエイティブは一つもわからないが今やるしかない・ここで甘えてしまうと一生このままだと思った。
0からのスタートだった。

最初は営業からスタートして仕事を取りに行くことからはじめた。
しかし、仕事を取りにいくにしても会社や業務内容の理解に乏しかった僕はとにかく朝礼で先輩が話す本日の予定に耳をたて、参加できる打ち合わせ参加させていただきメモをとり何を言っているのか・その言葉の意味は何かを打ち合わせ後に確認するようにした。
少しずつではあるがクライアントへのご提案、Webをはじめとした制作物の制作の流れなどが自然と入ってきて僕自身の役割をどうするのかを考えられるようになってきた。

僕の会社での役割は広告代理店の仕事ではなく直クライアントと呼ばれる、中小企業などと直接取引するために営業をすることだった。
制作がメインの会社だったので営業というポジションがいないので制作チームとのコミュニケーションは難しかったし、新しい発見の連続だった。

この会社では各種制作物(ロゴ、Web、パンフ、動画、アプリなど)の制作に関わる営業、提案(見積・企画書作成・プレゼン)、制作、運用を経験させていただいた。
僕自身も営業というポジションではあったがディレクター不足の際はディレクターとしての業務を経験できた。
また、宣伝会議のコピーライター養成講座にも行かせていただき勉強もできた。

この会社に入社してわかったこと
・クライアントと制作サイド(クリエイティブ)との気持ちをどう近づけていくのか?
僕自身はデザインやプログラミングは一切できないが、クライアントと制作サイド(クリエイティブ)との気持ちどう近づけていくのかも立派なクリエイティブだと思った。
すごく難しいけどうまく言ったときにが本当に嬉しかった。

しかし、2018年末で大阪営業所閉鎖に伴い僕はこの会社を退職することになった。

2. 移住と仕事の両立を考える

2018年末に会社を退職して2019年頭から僕は無職となったそれからのことについてはこの記事(僕が、和歌山県へ移住するためにしたこと。)で詳細を書いている。
当初は会社員として転職することを念頭に入れていた。移住を検討している和歌山県内に就職できることが僕自身の中では理想だった。
就職活動や移住体験をしていく中でやはり和歌山県内での就職は難しいと感じた。
2019年3月、僕は妻となる彼女と話合いをした。
結婚を控えていることこれからお金も必要となってくるので、和歌山県への移住はもう少しからにしようとなった。
大阪にある広告代理店からのオファーとあったので、同年4月転職することになった。

働いている中で僕自身の中での違和感があってそれがどうしても抜けないのだ。
給与面については妻となる彼女と暮らす上でも問題はないし、仕事も夜が遅くて徹夜ばっかりでもない、広告代理店ともあってタレントやモデルの方との仕事もあって派手さもある。
何一つ文句はないはずだ。
でも、生活雑貨メーカーでの企画営業、Web制作会社 営業をしていたときのように気持ちが熱くなれなかった。
思い出すの移住体験へ行ったときに感じた子供の頃のような懐かしさだった。

転職をした気づいた。
・この仕事が僕自身が本当にやりたい仕事なのか?
→ やりたい仕事ではない
・この仕事を続けていく気はあるのか?
→ 定年退職まで続ける気はない

僕は結婚をする家族を養っていかないといけないと思い、安定をとって転職した。
世間一般ではこの答えが正解だと思う。
でも、この先の長い人生を考えると目の前の安定を取りに得るよりも長い人生の安定を得ることの方が大切なのではないかと思った。
長い人生の安定とは何のか?
それは僕自身が熱意を持ってできる仕事をして、妻と幸せに暮らすこと。
僕自身が考える熱意を持ってできる仕事がある会社を探すのは困難だと言うことも同時にわかった。
妻とも話し合いをして僕は、3ヶ月で大阪の広告代理店を退職した。

ちょうどその頃に「和歌山県があなたをスカウトします!Wakayama Loveドラフト」という和歌山県が主催する移住イベントがあった。
少しでも何かいいきっかけになることを祈り、僕はこのイベントに参加することにした。
イベントでは和歌山市加太とマッチングした。
妻も和歌山市なら大阪からも近くて、何かあってもお互いの実家にも帰れる場所だということもあってOKをもらえた。
移住することが決まった。

以上、Spyhop エピソード0〜移住前の仕事〜でした。

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